若くして北近江を平定し、領民へも善政を敷く浅井長政。
京都への上洛を目指す織田信長にとって浅井長政と結ぶことは非常に特別な意味を持っていた。
織田信長は絶世の美女と言われた妹お市の方を輿入れをしその同盟を強固なものにする。
しかし・・・その後二人は刃を交えることとなる。
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目次
泰平の世を夢見た浅井長政、天下統一の為に手段を択ばない織田信長
領民を第一に考える長政にとって戦の無い泰平の世を作るために織田信長と結ぶことはとても意味のあることだった。
「天下泰平」という想いは織田信長も浅井長政も一緒だったに違いないからだ。
しかし、目的の為に手段を選ばない織田信長と常に民との懐柔策をとる浅井長政に徐々に溝が生じてくる。
織田信長京都への上洛そして金ヶ崎の戦いへ
1570年(元亀元年)上洛を果たした織田信長は再三の近隣諸大名へ将軍の名で上洛命令を出す。
しかし五代100年にも渡り越前を統治する朝倉義景は一向に上洛命令に従わない。
命令に従わない大義名分を手に入れた織田信長は徳川家康と共に羽柴秀吉、明智光秀を伴い30000というの圧倒的な兵力で越前侵攻を開始する。
越前の後方には妹お市を嫁ぎ先浅井長政が控えているため織田信長は後方の憂いもなく越前攻めを行った。金ヶ崎の戦いである。
しかし・・・浅井長政は信長を突如裏切り朝倉方に加勢する。
浅井長政の突然の裏切りその理由とは・・・
浅井長政が信長を裏切った理由は幾つかの理由があげられる。
信長にとっては青天の霹靂だったのか、それとも想定内だったのか・・・いずれにせよ不意に背後を突かれた信長は最大のピンチを迎える。
まずは裏切った理由の浅井家と朝倉家は信長と結ぶ以前から同盟関係にあったこと。
織田家と浅井家との同盟の誓約の中には朝倉家との不戦条約も含まれていたにも関わらず相談もなしに越前へ侵攻したこと。
もしかしたら信長には越前侵攻作戦を婚姻関係にあるとは言え浅井家へ漏らさないという思いがあったのかもしれない。
私が考える裏切った一番の原因はその頃の信長が浅井長政へ送った書状であると考える。
各大名へは敬称をつけての手紙に対し、長政へは継承を略したものでまるで家臣のような扱いだった。
近江統一を目論む長政は将来の浅井家の行く末を考え、父浅井久政や重臣たちの強い助言もあり打倒信長の千載一遇のチャンスと見て信長の背後を突くことを決断する。
お市が浅井長政の裏切りを信長へ前後を紐で縛った袋で「袋のねずみ」と知らせたというエピソードもある。
浅井長政の突然の裏切りに退路を断たれた織田信長は「是非に及ばず」と残し、突如戦場からいなくなってしまいます。
金ヶ崎の退き口で魅せた信長家臣団!
三万の軍勢を残し突然戦場から消えた信長。
信長の思いは大義を果たすためにはここで絶対に死ぬわけにはいかないという思いがあったはず。
殿として残った武将は、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康などその後覇権を争うそうそうたる面々。
戦国時代に限らず総大将が逃げ出したとなれば普通は三万もの大軍であれば総崩れになるのが当たり前。
ここには織田信長家臣団が一致団結して撤退戦を行います。
織田信長がいかに優れた家臣たちに恵まれてそして家臣たちもその後信長ならなんとかしてくれる!と信じていたからあきらめずに戦ったのでしょう!織田軍の結束は大したものです!
織田信長はその後松永秀久らの協力もあり、わずかな手勢とともに命からがら京都への脱出を果たします。
織田信長、浅井長政への復讐!姉川の決戦へ
京都へ逃げ延びた織田信長は金ヶ崎での大敗が無かったかのように平然と振舞います。
そして金ヶ崎での戦いのわずか50日後岐阜城で体制を整えた信長は20000の兵で浅井攻めを決行します。
自分を裏切った浅井長政を絶対に許すわけにはいきません!
堅固で知られる難攻不落の小谷城へ籠った浅井長政は朝倉家へ援軍要請を行います。
野戦で勝負したい信長は城下を焼き討ちにし長政を引きずりだそうとしますが家臣の助言により長政は思いとどまります。
次に信長は小谷城を姉川で挟む浅井軍の横山城へ矛先を向けます。
大軍で横山城を囲まれ救援に向かった浅井軍はついに姉川で織田軍と対峙することになります。
朝倉軍援軍の到着!しかし義景はこず・・・
その頃ついに浅井軍に朝倉方8000の援軍が到着します。
大変なリスクを冒してまで裏切った織田信長、そして今度は自分のピンチに助けてくれるであろう朝倉軍、しかしそこには朝倉家当主の朝倉義景の姿はありませんでした。
指揮を執るのは朝倉義景の親戚朝倉景鏡、浅井軍の士気はあまりあがりません。
一方織田信長にも援軍が到着します。
はるばる三河から徳川家康自らが5000を率いて馳せ参じます。当時徳川家康の総兵力が8000と言われる中その殆どの兵力をつぎ込んだ家康の思いが感じられます。
この戦の意味と言うものを徳川家康は理解していたものと思います。
自分の上司や取引先がココだ!と言う時に勝負をかけられる器がとても印象的ですね!
姉川を血で染める戦いの火ぶたが落とされる!
1570年(元亀元年)6月28日午前6時徳川軍と朝倉軍の戦闘をきっかけに姉川の戦いが開始される!
横山城へも軍勢を割いていた織田軍は浅井軍へ信長の本陣が背を向けた形になっていた。
初めは浅井軍の優勢で戦が進む。次々と織田軍は破られ本陣へ迫る勢いを見せた。
織田軍もあわや総崩れという所まで行くが逆に浅井軍は深く深く織田軍の中に入って行ってしまった形になった。
その頃朝倉軍を蹴散らした徳川軍と横山城攻めをしていた織田軍の先鋒隊が相次いで浅井軍の横側から攻撃を加える。
そうなってしまっては浅井軍もどうすることもできず最後は小谷城へ敗走をしてしまいます。
姉川戦いの終結そして浅井長政の運命は
ここに姉川の戦いは浅井軍に多大な損害が出て終結します。
姉川の戦いで兵力の大半と家臣を多数を失ってしまった浅井長政。
きっと自分の織田信長への裏切りを後悔したに違いありません。
そして浅井長政小谷城へ籠り信長包囲網を敷き抵抗を見せませすが徐々に滅亡への道へと突き進んでいくのです。
姉川の戦いのまとめ
織田信長は浅井長政の裏切りで不意を突かれてしまい信長の人生の中でも数えられるピンチだったに違いない。
しかし金ヶ崎の退き口などは織田家臣団の結束を垣間見れる戦いとなった。
そして家康の出陣!まさに勝負どころはどこなのか?ということがとても勉強になる戦いではあった。
- もしも裏切るのであれば相手きちんと選ばなければならない。
- 最大のピンチの後でも平静を装っている信長、そして復讐戦は行動が早い!
- 主君への忠誠心は織田軍は大したものだと思った。
どんな時でも信長は魅せる戦いをしていると感じました!