織田信長の戦国時代最大のライバルとは誰だと思いますか?信長を最大限に苦しめた存在は武田信玄や上杉謙信など戦国武将ではなく、石山本願寺を中心とした一向一揆でした。
大阪石山本願寺と戦いをはじめてから10年もの間信長を苦しめた本願寺と一向一揆との戦いについて紐解いていきたいと思います。
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目次
戦国大名を凌ぐ力を持っていた本願寺
親鸞を開祖とする浄土真宗は戦国時代、世の中の不安定状況を背景に農民たちを中心に各地に信者を増やしていた。
その中でも本願寺はに大阪を中心に顕如時代には一大勢力となり、寺内町(じないまち)と呼ばれる寺を中心とした町を形成し、税を免除し商業を奨励するなどの優遇措置をしき、町を活性化し大きな収入源としていた。
現在の宗教とは全くことなり宗教国のような形で、規制緩和などを積極的にし、相当な力を持っていたんです!
本願寺は経済力を背景に鉄砲など最新武器で武装し、寺の周りに堀を巡らせその勢力は戦国武将を凌ぐものとなっていました。
織田信長の上洛と将軍足利義昭との亀裂
上洛を果たした信長は15代将軍に足利義昭を擁立しますが室町幕府再興を目指す義昭と天下統一の為に将軍を利用しようとする信長に徐々に溝が生じます。
日に日に傲慢になる織田信長についに足利義昭は各地の大名や権力者に打倒信長を呼びかけます。
これに武田信玄、浅井長政、朝倉義景など各地の大名が呼応する形となります。
そこに本願寺も加わる形となりました。
本願寺、信長への決起!
信長は本願寺の莫大な経済力へ眼をつけ、戦費の要求をし始めます。
本願寺もはじめは要求に応じていましたが、要求は次第にエスカレート!まるで某アニメのいじめっこみたいものですね。
元亀元年(1570年)織田信長と浅井朝倉軍の姉川の戦いを機に各地の反信長勢力が決起します。
本願寺もこれに呼応する形で本願寺11代当主の顕如が各地の信者に向けて激文を送り決起を促します。
ここに織田信長と石山本願寺との決戦が火ぶたをきるのでした!
一向一揆との戦い
本願寺の決起により各地の信者達一向宗も信長軍に対して蜂起をします。
その中でも伊勢・長島の一向一揆は特に激しく信長の最愛の弟織田信興を自害にまで追い込みます。
兵力を分散していた信長は援軍を送ることもできずに見殺しにすることしかできませんでした。
「進まば往生極楽、退かば無間地獄」
宗教の力は本当に恐ろしいですよね・・・きっと死を顧みず向かってきたに違いありません。
比叡山延暦寺焼打ちと反信長同盟の形成と武田信玄の侵攻
元亀二年(1571年)9月比叡山延暦寺に焼打ちを行います。
浅井朝倉軍との戦いで中立を立場をとることにしていたにも関わらず約束を反故にしたことによる報復でした。
比叡山の焼打ちは僧侶だけでなく女性や子供まで3000人もの大虐殺となりました。
これに危機感を覚えた本願寺は浅井・朝倉・武田との反信長同盟を作るに至ります。
武田信玄は甲斐から出兵、徳川家康の三河へ侵攻し三方ヶ原の戦いです。
戦国最強軍団武田軍と三方ヶ原で決戦を挑みますが徳川家康はここで大敗を喫しますが突如武田軍は撤退をしてしまいます。
武田信玄が急死をしてしまうのです。
もしも武田信玄が生きていたら歴史はきっと変わっていたかもしれないといつも思います。
武田信玄の脅威がなくなった織田信長は「天正」と元号を改め京都から足利義昭を追放し、ついに室町幕府を滅ぼしてしまいます。
織田信長の一向一揆弾圧
武田信玄と死去と室町幕府の崩壊により求心力を失った反信長同盟に対しいよいよ織田信長は本格的な実力行使に動き出します。
天正二年(1574年)5月長島の一向一揆に対し大軍勢を送りこみ一向一揆に対し弾圧を加えます。
この時命乞いをしてきた一向一揆衆に対しても「根切り」と呼ばれる完全殺戮や行き場を無くし逃げ込んだ先で焼打ちを行い二万人もの人々を殺害します。
また浅井長政・朝倉義景も激戦の末に破りその勢力を拡大していきます。
この年の正月、浅井長政・久政親子、朝倉義景の頭蓋骨は金で彩られ宴席に並べらたと言います。
信長に反旗を翻すとどうなるか?信長は見せしめを行うことで家臣や周囲に教えていたのでしょう。
それにしても・・・惨い・・・魔王などと言うエピソードはこういう所から来てるのですね・・・。
越前での一向一揆の抵抗
朝倉家滅亡の後、越前の守護を任されたのは織田方に寝返った朝倉の武将だったがこの武将に対し越前の一向は反乱をおこし、越前は一向一揆が治める国へとなってしまうのです。
この動きに対して本願寺顕如は自分の腹心を越前へ送り込み本願寺の支配下に置くことを目論見ます。
天正三年(1575年)織田信長は越前の国の一向一揆を平定すべく軍勢を送りこみます。
この時、越前の一向一揆は内部分裂を起こしてしまいすぐに信長軍に征服されてしまいます。
また越前の府中では山々へ逃げた人々も含め一向一揆12000人以上もの首を討ち取ったと信長は家臣への手紙で伝えています。
また捉えた者たちも釜ゆでや火あぶりなどにして徹底的に一向一揆を弾圧します。
越前平定と新しい国づくり
越前を平定した織田信長は織田家重臣柴田勝家を送りこみます。
家臣を一国の大名に置くのは戦国時代にあっては異例中の異例でした。
監視役には府中三人衆と呼ばれれた前田利家をはじめとした信長子飼いの家臣を置き、「越前国掟」を定め、織田信長の直轄地であるということを定め自分の意志が通じる新しい国の形をつくります。
織田信長が行ったこの統治方法はその後天下統一を果たす秀吉や家康も踏襲しているやり方で大名を中心とした国づくりの基本を作ったのでした。
織田信長の宗教に対する考え
織田信長の一向一揆への弾圧や延暦寺の焼打ちなどを見ると神をも恐れぬ非人道的な所業と思える。
殺戮や残忍で破壊的なイメージはこの辺りから根付いたものだろうと思うが、全ての宗教に対し弾圧したわけではない。
一方では保護するべきものは保護したということもあるが政治に介入し影響力を与える宗教に対してのみこのように弾圧をしたのだった。
宗教が力を持つということが織田信長の目指す国づくりには不要だったということなのだろう。
織田信長大阪石山本願寺への攻撃
天正4年(1576年)4月、伊勢・長島、越前の一向一揆を弾圧した織田信長はその矛先を一向宗の総本山大阪石山本願寺へ向けます。
明智光秀、荒木村重に大阪攻めを命じますが本願寺は財力を生かし、鉄砲を数千兆も用意し逆に返り討ちにします。
織田信長自らも出陣しますが信長も鉄砲で足を打たれるなど大苦戦を強いられます。
本願寺は上杉謙信、信玄の後を継いだ武田勝頼、そしてそれまで信長と友好関係にあった毛利輝元などと新たな信長包囲網を作ります。
村上水軍と荒木村重の裏切り
毛利輝元が本願寺へ協力をするということは織田信長にとっては大変驚異となりました。
毛利水軍が瀬戸内海から大阪湾を通って兵糧などの物資を運び込まれると戦が長引く恐れがあるため大阪湾へ侵入する前に毛利水軍を叩いておく必要がありました。
しかし、毛利水軍には瀬戸内海を制海圏に置く最強水軍、村上水軍も加わっていたためにかなりの苦戦を強いられます。
織田信長は摂津・河内などの水軍で対抗しますが、最強水軍村上水軍は焙烙(ほうろく)と呼ばれる火薬の詰まった爆弾を投げつけ織田水軍は壊滅的なダメージを負ってしまい、大阪湾の制海圏を奪われてしまいます。
またこの時期本願寺側の離反工作により荒木村重が信長を裏切って本願寺へついてしまいます。
織田信長の村上水軍への対抗策は?
信長の本願寺攻略には大阪湾から村上水軍を排除する必要がありました。
村上水軍の焙烙(ほうろく)の攻撃をなんとかしなくては・・・信長は考えた末に火を通さない鉄で装甲した鉄船を作らせることにします。
鉄でできた鉄船はスピードこそでないものの焙烙(ほうろく)や火矢などの攻撃をかわすことができます。
さらに鉄砲や大砲を装備をすることで、近づいてきた村上水軍に集中砲火を浴びせることに成功し、村上水軍を大阪湾から排除することに成功します。
織田信長という人間はとにかく危機管理能力に長けていると思います。
その当時は常識破りともいう鉄の船、今では当たり前ですが木造船しかなかった時代に鉄船を作るという発想はなかなか持ていないものです。
勅命講和と織田信長の大阪へのこだわり
本願寺が抑える大阪は天下の台所と江戸時代には呼ばれた地域で、水運や商業の中心となりうる町だと信長はきっと知っていたはずです。
これまでの各地の一向一揆は根絶やしにするまで殺戮を繰り返してきたのに対し、大阪石山本願寺に対しては総攻撃はせず、宗教的な地位を保障するなどの講和案を提示しています。
大阪を戦火の渦にして焼きつくすことが目的ではなく、大阪の権益を狙ってのことだと思います。
どこにどのような価値があるかを見ることができる織田信長は先見の明に優れた人物だったということがよくわかります。
また信長はこの講和を勅命講和とし、朝廷を動かしの命令であることを強調します。
本願寺顕如はついに講和案を受け入れ大阪を織田信長へ明け渡し、和歌山へ流れていきます。
しかし息子の本願寺教如はこの講和条約を不服とし徹底抗戦を唱えますが求心力は徐々に失われ最後は降伏を余儀なくされます。
ここに信長を苦しめた本願寺、一向一揆との戦いが終結するのです。
その後本願寺は豊臣秀吉の庇護を受け宗教団体として今日まで続いています。
顕如と教如の親子の意見の食い違い現在も東西本願寺分裂という形で残っています。
まとめ
- 戦国時代本願寺という影響力のある宗教があった、そして信仰の力は強い!と思った。
- 織田信長は非常に合理的に物事を考え非情になるところは非情に、守るべきものは守る、というハッキリした人物だと思った。