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織田信長

織田信長長篠設楽原の戦い!戦国最強軍団武田軍を打ち破る!!

投稿日:2017年4月4日 更新日:

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戦国時代最大の1万人の犠牲者を出したと言われる長篠の戦い。

織田信長・徳川家康の同盟軍が近代兵器鉄砲を3000挺も用意し三段構えで馬防柵で待ちかまえ当時戦国最強を誇る武田騎馬軍団を打ち破る!というのが誰もが知っている通説の長篠の戦い。

教科書にも屏風絵とともに解説が載っていて一度は目にしたことがあると思いますが・・・実はそこには衝撃の新事実が隠れていたのです!

織田信長が完膚なきまでに武田軍を破り、天下統一への足掛かりとなった長篠の戦い を紐解いていきたいと思います。



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3000の鉄砲隊も騎馬軍団も存在していなかった?

織田信長の代名詞とも言われるこの長篠の戦は三段構えの鉄砲隊を駆使し戦国最強の武田騎馬軍団を破る!という誰もが知っている逸話。

しかしこの逸話はどうも豊臣秀吉が捏造し、美談として語り継がれているようなのです。
信長公記によると当日の天候は梅雨時期で雨が降っていたということです。

当時の鉄砲は火縄銃、万が一鉄砲を用意できていたとしても雨で使い物にならなかったのです。

歴史は勝者によって書き換えられるものという事実を教えてくれる出来事だと思います。

鉄砲隊と馬防柵が描かれているあながよく知っているあの屏風絵は長篠の戦があった後の100年後、江戸時代に書かれたものなのです。

あのよく見る長篠の戦屏風絵の前に描かれた屏風絵や文献にはどこにも鉄砲隊も騎馬軍団も描かれていないのです。

では一体どんな戦だったのでしょうか?

 

長篠の戦の開戦!500人の長篠城へ武田軍15000人が迫る!

武田信玄の急死を受けて跡を継いだ武田勝頼は武田信玄の時代よりも勢力を拡大していし勢いに任せて武田軍は三河へ侵攻を始める。

国境に面する長篠城を守るのは城主奥平貞昌、後の信昌と500余りの手勢。

圧倒的な軍勢で長篠城を包囲し簡単に落城かと思われた・・・しかしこの奥平貞昌はかなりがんばります。

というのも奥平貞昌は元は家康の家臣であったのだが武田家へ裏切り、その後徳川家へ戻ると言う出戻りな人。

絶対に負けられない戦い!ということでとにかく多勢に無勢でも頑張るんです!

しかも長篠城というのは川を城の周りに要し、さらには堀を何重にも掘っているために難攻不落の城でした。

とは言っても落城は時間の問題!そこで長篠城から決死の援軍要請を送るに至ります。

 

戦国時代の走れメロス鳥居強右衛門とは

絶対絶命のピンチの援軍要請に抜擢されたのは身分の低い足軽の鳥居強右衛門でした。

身分よりも地の利を知っているという理由で選ばれた鳥居強右衛門は約70km弱ある岡崎城へ援軍要請へ走ります。

味方のピンチを伝えるためにとにかく昼夜を問わず走り続けます。

やっとの思いで岡崎城へたどり着き織田信長自ら30000の援軍が出撃する事実を知ると信長が休んでいけ!という言葉も聞かずまた長篠城へ戻ります。

しかし、長篠城を目前に武田軍に捕まってしまいます。

そこで武田勝頼に取引を持ちかけられます「城内の兵に援軍が来ぬと伝えよ!そうすればお主と家族の命は保証する」と。

鳥居強右衛門はその取引を承諾して城内の兵に伝えます。

「援軍はすぐそこまで来ている!だからもう少しの辛抱だ!」と。

武田軍との取引を反故にしてしまった鳥居強右衛門は磔にされてしまい絶命してしまいます。

もしも私だったら・・・裏切ってますね・・・カッコよすぎます鳥居強右衛門!

その結果長篠城の兵は結束を固めてついに落城することなく守り抜きます。

その後鳥居強右衛門の忠義心に感心をした武田家の武将は鳥居強右衛門を旗印にするくらいリスペクトしたということです。

鳥居強右衛門の地元では石碑はもちろんのこと鳥居強右衛門のグッズが売っていたり今でもその鳥居強右衛門の忠義心は今でも人々の心に愛され続けています。

 

織田信長が決戦の地、設楽原へ!武田軍を誘い出す!

長篠設楽原の戦いで武田軍を打ち破り天下に号令するというのは織田信長の中にきっとあったに違いない。

桶狭間の戦いでは少ない軍勢で今川義元を破ったもののその後信長の戦は相手よりも多い軍勢で戦いに挑んでいる。

戦は数だけでは決まるものではないが数でも優位に立つというのが織田信長の必勝条件だったに違いない。

岐阜城を出発した信長の行軍スピードはゆっくりしたものだった。

武田軍は長篠城を取り囲み落城寸前、そしてゆっくりした行軍で迫る織田軍に対し武田勝頼は織田徳川連合軍は恐れを成していると見ていた。

戦での必勝条件に地の利を使うのが最上策なのだがいかにして設楽原に武田軍を引きよせるかを織田信長は考えていた。

また信長は設楽原に馬防柵ではなく山を利用し、土塁を築き「陣城」を作っていたことが分かっている。

しかしいかにしてその陣城に武田軍を誘い出すか・・・信長は一計を案じるのでした。

 

酒井忠次の妙案!鳶ヶ巣山砦攻略その時信長は?

軍議の席、徳川家康の重臣酒井忠次が鳶ヶ巣山砦の奇襲を持ちかけます。

長篠城にほど近いこの鳶ヶ巣山砦を奇襲し攻略することで長篠城の救援をしさらには武田軍を孤立させるという作戦だったのですが信長は全く相手にしません。

しかし軍議が終わると秘密裏に酒井忠次を呼び寄せ鳶ヶ巣山砦攻略を実行させます。

軍議での話は家臣の中に敵に通じている者がいるかもしれないという用心に用心を重ねた信長の考えでした。

酒井忠次の作戦は功を奏し鳶ヶ巣山砦攻略と長篠城救援を成功させます。

それにより武田軍は退路を断たれ前方の織田軍へ決死の突撃をするという選択しか残らなくなったのです。

信長の思惑通り決戦の地設楽原へ武田軍を誘い出すことに成功するのです。

 

引いては攻め、攻めては引く!巧妙な駆け引きで武田軍を殲滅!

武田軍をうまく設楽原へ誘い出した織田徳川連合軍は攻めては引いて、攻めては引いての駆け引きをして徐々に陣城へ引き寄せ攻撃をします。

決死の突撃をする武田軍の中には武田四天王のうち馬場信房、山県昌景、内藤昌豊の三名がいました。

戦いは実に8時間に及ぶ大激戦でしたが武田四天王の三名を含む約10000人もの兵がここで討ち死にをしてしまいます。

実はこの戦の前武田軍の武将たちは別れの盃を交わしたと言われていてきっと自分たちの死期を感じていたのだと思います。

死ぬのを覚悟で華々しく散って行く・・・武士って哀しきものだなぁって思いますよね。

武田勝頼は壊滅的な大敗を喫してわずかの兵とともに領国へ引き上げていきます。

ここに戦国史上最大の被害を出した長篠の戦が集結するのです。

武田軍はこの敗戦がきっかけで滅亡へと突き進みます。

 

織田信長の勲章とも言えるべき戦いだった

戦国最強と言われた武田軍団を破ったということは信長にとっても非常に大切な戦いとなりました。

織田信長は長篠の戦で戦死した人々の為に塚を建立して弔います。

「信玄塚」と呼ばれるその石碑には信長が長年苦しめられた名将武田信玄と武田軍をついに滅ぼしたという勲章だったに違いありません。

地元では今でも長篠の戦で亡くなった人々を弔うためのお祭りが開催されています。

長篠の戦は織田信長、そして武田軍にとってもその運命を分けた戦いだったと言えます。

 

長篠設楽原の戦いのまとめ

  1. 織田信長の長篠の戦での戦略!陣城を築き、長篠城へ敵を釘づけにし奇襲をかける、その戦略はまさに必勝作戦だった!
  2. 戦いは地の利を利用して勝つべき所で勝負することが勝利へと導く!
  3. 鳥居強右衛門!男の中の男だね!
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