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今川義元 織田信長

織田信長桶狭間の合戦!情報戦略がもたらした奇跡の大逆転勝利!

投稿日:2017年4月2日 更新日:

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尾張の小大名にしか過ぎなかった織田信長を一躍全国にした戦いとして歴史の教科書にも出てくる桶狭間の戦い!

織田信長4000に対して今川義元25000という勝ち目のない戦に織田信長は情報戦略を駆使して勝利を目指します。

その織田信長大逆転勝利の軌跡を辿ってみます!



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今川義元は弱かったのか?

今川義元のゲームキャラクターはこんな感じでなんとも愛らしく・・・そして弱々しいイメージ・・・お公家さんの恰好して・・・とか思っていました。

今川義元のこのイメージは今川家が公家にも名が通じる名門家であり京都の公家がしばしば今川家に客人としていたところに由来します。

戦国大名でありながら名家でありそして教養もあった人だったと思われますが桶狭間で敗れたためにあとからついたイメージだと思われます。

確かに息子に今川氏真という人物がいますがこの人は戦よりも蹴鞠なんかが得意でどちらかと言うと今川氏真の方がこのイメージに近いかと思われます。

しかし本当の今川義元は様々な領国改革を行ったり法律を作ったり「海道一の弓取り」と言われるくらい戦国大名の中でも非常に能力のあった人物だったのです。

 

油断できない今川義元と大軍が押し寄せるその時信長は・・・

そんな今川義元が京都への上洛を目的に織田信長の治める尾張に攻め入ってきます。

兵力差は6倍以上!尾張ももう「おわり」だと言ったかどうかはしれませんが・・・周辺の織田方の豪族は信長に見切りをつけて次々に今川に寝返ってしまいます。

しかし信長はここで一計を案じます!

寝返った豪族たちの筆跡を真似て今川方に「この寝返りは今川を欺くための作略である」と偽の手紙を書いて撹乱します。

まんまと乗せられた今川方は信長を裏切った豪族たちは偽りの寝返りだと勘違いし次々に粛清していってしまいます。

とは言っても今川軍は大軍!勢いにのって次々に信長方の砦を攻め滅ぼしていきます。

信長軍は今川軍のこの動きに軍議を開きますが信長は大した作戦も指示せずに軍議の場を離れてイビキをかいて寝てしまいます。

でも信長はじっと「時」が来るのを待っていました・・・大軍に正面から戦いを挑んでも勝ち目はない!だから狙うのは今川義元の首一つ!

未明突如信長は熱田神宮を目指して清州城を出発します!一度に軍隊を動かさず散り散りに出発したのは敵に動きを察知されないため。

とにかく信長は情報を漏らさないために細心の注意を払っていたんです!敵を欺くにはまずは見方から!この情報に対する信長の考えはこの後様々な戦でも垣間見えます。

 

信長の策略が勝利を引き寄せる

熱田神宮から善照寺砦に移った信長軍は約3000、それでも2万を超える今川軍へ戦いを挑んでも勝ち目はありません。

しかも信長方の鷲津・丸根砦は早々に落ちてしまい今川軍はどんどんと勢いを増していきます。

今川軍の兵力は前線の砦攻めに約1万、後方の守備に1万、そして今川義元本陣の守備が5000。

勝利を徐々に確信し始める今川軍はここで休息を取ることにします。

しかし信長は今川義元の首を取る為には最前線基地の中島砦に移動する必要がありました。

その為信長は相手の目をかく乱するために300の決死隊を今川軍に突撃させて敢えて負けさせます。

今川軍が目がそちらに向いているうちに中島砦に密かに2000の兵を移動することに成功します。

信長軍は大したことはない・・・きっと今川義元をはじめ今川軍にはそんな油断がきっと生まれていたに違いありません。

 

信長は情報を的確に掌握し行動する!勝利はそこにあり!

さて中島砦に移って出撃の時を待つ信長。

信ぴょう性がどうか?という説もありますが今川義元へ地元農民たちが酒を持って訪れるというものがあります。

その時に農民にふん装していたのが信長の家来の蜂須賀小六や前野長康だと言われています。

また通説では今川義元は「桶狭間」という狭い谷間に布陣していたと言われていますが信頼性のある信長の記録「信長公記」には「桶狭間山」という小高い丘に布陣していとあります。

今川義元という人物が周りを見回せる丘に布陣していたと言うところを見るとお馬鹿な人物ではないということがわかりますよね。

桶狭間山にて休息を取る今川軍、その情報は簗田政綱(やなだまさつな)によってもたらされます。

きっと勝利の美酒に酔っていたに違いありません。またこの時他の今川軍も農村へ略奪へ行ったりと義元の守備は手薄になっていました。

信長はその「時」を見逃しませんでした。旧暦の5月梅雨の時期雲がかかり雨が突如降りしきる中、中島砦を飛び出しました。

信長軍は周りの将兵には目もくれず目指すは義元ただ一人!今川義元の首を目指して桶狭間山に突撃を開始します。

突然現れた信長軍に今川軍は大混乱!ついには今川義元を毛利新助が討ち取り織田信長の桶狭間の大勝利が生まれたのでした。

 

信長の情報に対する革新的な価値

桶狭間の戦いは織田信長という人物が情報をというものに対してどのような価値を持っていたかがわかる戦いです。

戦が終わってからの論功行賞の際に、これまでの通例では敵を討ち取った一番槍が功労者となりますが、この戦では簗田政綱が一番の功労者ということになりました。

この先の戦でも信長は情報を駆使して様々な戦や外交を行っていきますが、その先駆けとなった戦いが「桶狭間の合戦」であったと思います。

最近では「情報」に価値があるということは分かっていることですが、この時代に情報を非常に大切にしていた信長は非常に革新的な人物だったのでしょう。

また今川義元という人物に対しても織田信長はリスペクトしていたという逸話が残っています。

桶狭間の戦いで今川義元が持っていた刀を信長は幾度の戦でも常に携帯していたというものです。

その後秀吉や家康に受け継がれて今でも京都の建勲神社に奉納されているというところを見るとあの弱々しい今川義元というのではなく織田信長はリスペクトすらしていたということがわかります。

苦しみ抜いて今川義元という巨大な敵を倒したという織田信長にとって忘れられない戦であったに違いありません。

桶狭間の戦いで学んだこと

  1. 巨大な敵にも怯まずに戦いを挑むことで絶対に勝機があるかもしれな!
  2. 情報はとっても大切!みだりに大切な情報は味方にだからとベラベラしゃべらない
  3. 油断大敵!勝って兜の緒を締めよ!
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